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現場写真

The Stripper and the Millionair

2000年の冬から僕はロンドンに住んでいた。住んでいたのはテムゼ川の南でワータールーステーションとエレファントキャスルの中間だ。あまり良い地域ではないが、大学があるので仕方がない。僕は大学の寮に住んでいて大学まで徒歩5分、テムゼ側沿いにあるローヤルナションル国立劇場までも徒歩15分という個人的には気にいった所に住んでいた。大学の授業の後はまずいカフェテリアでベークトビーンズ等を食ってから図書に行きその後劇場に出かけた。国立劇場でも学割が効くので8ポンドで済んだ。うーむシェークスピアの産地で1200円そこそこで楽しめるのは嬉しい。空席に割当られるが、運がいいと際前列に座れる。これは役者の唾が届く距離だ。ちょっと大げさか、少なくとも飛びちっているのが見える。一回行くと解りにくいイギリス英語に集中するので全身が疲れ、結果的にエール、イギリスのポピュラーなビールを飲んで頭を一端空にしてから帰宅する。シェークスピア英語はさっぱり解らないせいもあって特に疲れた。しかし現地料理の地元の味を味わわない訳には行かない。それがいかにイギリス料理であろうと。

大学の寮はまあまあだ。最初の部屋のフロアは金持ちなスペインの学生が夜遅くまで飲んでいた。挨拶にキッチンに入ると僕はコップ一杯ウイスキーを手わたされ、ドンチャン騒ぎ状態に巻込まれた。夜中には窓の前でテーブルストリップを男子学生が始め、その後彼等は市内のクラブに皆消えた。朝4時に彼らは戻り、また騒いだ。僕はキッチンの隣の部屋を割当られていて、そこは地獄に等しかった。翌日寮の管理人とケンカし部屋を強引に代えて貰った。どうやら、一々学生の希望を聞いていると寮の管理ができないらしいが、院生を20前後の学生と一緒にされてはやはり困る。今度はクラスメートとスエーデンからの語学留学生とでフロアをシェアした。彼らこそ20才前だったが、数少ない男女共同フロアでキッチンも奇麗だった。

クラスメートとはよく出かけた。前半をベルリンで過ごし、そこでは講義が厳しかったのでほとんど遊べなかったが、その反動か、ロンドンでは僕らの関心はロンドン到着早々町と人にあった。我々の住む所からちょっと南に行くと最近ヒップなジャマイカン地域のブリクストンがあった。ブリクストンに近づく程バスはジャマイカンで埋まり、道路を埋める車の運転手もジャマイカン一色に染まった。このブリクストンのややアナキーッぽい所にロンドンの若者は魅力を感じていた。道端で何やら怪しい物を売っているおじさんやお兄さんが全体的に暗い道並に列んでいたが、バラックの中に対象的なシックなクラブ、誰でも詞を朗読できるカフェ、安い映画館等があった。あまり一人歩きは進めないが、一味違ったロンドンでこの地域にはまっていたクラスメートも何人かいた。

ロンドン到着早々僕は演劇学校を探した。気にいったコースの値段は88ポンドで10回。プライベートな事務所のコースの値段の3分の1だ。市が援助している一種の社会教育センターで、他にも絵、語学、コンピューター等のコースがある。薄汚い黒い煉瓦ビルがワータールーブリッジから北に歩いて15分ぐらいの所にある。こちらは週一回だ。このコースはカメラ撮影専門で、カメラに対しての動きが専門だった。参加者はさまざまだ。自称作家の正体不明な中国の叔母さん。こういう息抜きがないと生きていけないという演劇好きなロンドン育ちのおじさんから、大学で演劇を専攻したが、カメラの前での動きをもっと確かめたいという20代のアイルランド人女性会社員、バーで働くスペインのパートタイムモデルの美女(ただしニンニク料理がお好きのようだった)、定年退職した叔父さん、叔母さん等だ。その結果実力もバラバラだった。指示どうりに動くが、プロ並な人もいれば、高校の演劇クラブでも見ないような人もいた。その差がかえって何が演劇には必要かという点を示してくれたとも言えないが。マイク先生は俳優で舞台、テレビ、映画に出ていた事があり、ここ5年間は子育て専門でデザイナーの妻に食べさせて貰っているという事だった。しかし夏の終りから自分がある郊外にある劇場の監督を担当するらしい。彼は細かい演劇の指示を出しその変化を我々はビデオで確認する事ができた。カメラのクラスでは、内面的な物よりもカメラの映りが重視された。いかにイスにぶつかっていかに自然に倒れるか、何処でターンをしてどのセリフを言うか。アップの撮影ではちょっとした表情の変化でもって画面全体が地震のように揺れてしまう事など。これらの事を注意されながら少しずつ個人個人が選んだチエホフのシーンを撮っていった。作品カモメからシーンを選抜する者が多かった。最終的にはチエホフのシーン集を撮る予定だ。

授業の後はエールで流すというのが、決まりのパターンだった。ジャマイカン系の叔母さんは自分の息子が連れてくるイギリス人の彼女の愚痴をこぼす事が多く、バス会社で探偵を勤めている ピーターはよく仕事の話しをした。ダブルデッカーバスの2階で夜遅くに強盗事件が増加しつつあり、警察と張込みをした事など話した。ピーターは秋からシアターにも参加すると言っていた。今彼はロンドンを離れ、兄弟の会社で仕事をしているかたわら地方の劇団に出演している。参加者のキャサリンはJohn Schlesinger (監督Midnight Cowboy でオスカー授賞)の姪で同時に女優Peggy Ashcroft の姪でもある。テクノのCDを何枚か出した事のあるカリフォルニアンブロンドでゲイな奴はロンドン7年目にしてこの地を去る事を考えていた。彼はベバリーヒルズ出身で、親は映画産業出身で妹は女優だという。彼は昔からそこの人工的環境と特有な人間関係が嫌いだったためロンドンに脱出したという。日本でも何回か音楽の録音を行なったと言う。彼いわく自分の最大なる欠点は音のイメージを頭の中で作れるが、シンセが割と苦手らしい。彼は次の一手を探していた。 参加者の20代、30代のほとんどが次の一手を模索している人ばかりだった。演劇大学を卒業した彼女はロンドンで会社員をしていた。こういう人達と一緒にいるだけで人の観察力が上がり演技のねたにもなった。迷っている人間像というのは見ていて楽しかったからだ。確かに自己満足のカメラクラスというとらえ方もない事もなかったが、彼らとのビールはうまかった。

4月に一本の電話が入った。ドイツの事務所からで映画の役が決まったというのだ。テレビ映画には違いないが、映画は映画だ。まだ100%決まったわけではないが来週あたりに台本が送られるという事だった。演劇を始めて以来初めての映画撮影だ。台本が届くとそそくさと読み通し、自分のシーンのページをコピーし、ポケットの中に入れた。国立劇場で劇を観賞した後にはワータールーブリッジの下のバーでエールを飲みながら台詞を暗記した。ガラス張りのバーで窓に向かって座ると自分の姿が写る。人通りも夜は少ないので自分の表情を確認しながらシーンに専念した。今から思うと滑稽で不気味な光景だ。ブツブツと窓ガラスに向かって話しをしながらビールを飲んでいる東洋の男。当時は変に気分が良かったもんだが。(日本で外人が喫茶店の窓に向かってブツブツ話ていても不気味ではないであろうか?)

撮影の一週間前になっても連絡はない。ひょっとしてキャンセルになったのでっはないかと弱気になる。撮影の日程が決まったのは撮影の3日前。ファイナルズ試験の2週間前の撮影だが、一週間で戻れるので試験の準備も大丈夫だと計算した。ローガン空港からルフトハンザでフランクフルトに飛んだ。エコノミークラスではあるがどうも信じられない。初めての映画プロジェクトに飛んで行くという事態が不思議だった。どちらかと言えばぼろバスで行って、どこかの知らない人の家で寝とまりしながら、自費で昼飯を買うインディーズ映画というような事を想像していた。

ホテルに着くとすぐにコスチュムの女性二人と買いものに出かけた。背広、靴、シャツ、ネクタイ、一式揃えた。買いもの等滅多にしない自分でも周りがどんどん選んでくれると悪い気はしない。日本人ビジネスマン担当のエキストラと会ったのは月曜日フランクフルト市内ホテルのロビーだった。マインツで宗教学を専攻している韓国人の学生2名に私の上司、ミスターヤマモトの役を担当する旅行会社を経営する日本人だった。彼はハイデルベルグで哲学を学び、その後哲学では食えない事に気づいたのか、旅行関係の仕事を始めたという。彼がポルシェで乗り付けた所を見ると旅行代理店は確かに哲学よりいいのかもしれない。妙な集団だ。ひょんな所からこの話しが転がり込んだらしい。彼らは全員撮影経験ゼロ何処か、演劇初体験者だった。

郊外のハーナウへバンで走った。地方の歴史博物館を豪華ホテルに変装させたセットについてから衣装、化粧を済ませた。他人の手が顔の上をピタピタと触る感触が慣れない。撮影初めての我々日本ビジネスマン4人組は撮影風景を見つめながら世間話しを交わした。とにかく待つ。夕方になって要約我々の番が回ってきた。歩くシーンばかりで楽だった。初撮影にぴったりだった。撮影のスタッフには初撮影だという話しはしなかった。というのは、なめられたくないという訳ではなく、自分の甘さが出てしまう事を恐れた。初めてだから許されるだろうという考えだと失敗は確実だ。結果的には心配は無用だった。他の俳優は皆親切で、細かいアドバイスをくれた。主に相手役を勤めるヨルグは台詞を僕と何回か通してくれた。初めてだという事は言わなかったが、ロンドンでは経営を専攻している事を話した。つまり、ドイツの場合ほとんどの俳優が大学の演劇部を卒業しているが、僕の場合は日本人であるという特権で役を取った事を知って貰った。翌日の撮影は台詞があった。僕の役の上司ミスターヤマモトとの日本語会話のタイミングが一番難しかった。まずもとの台本には日本語の会話はなかった。しかし当日監督はどうしてもアドリブで日本語を入れてくれという。ドイツ語、日本語の切替を頭の中でしようとすると暗記した台詞が一瞬消えかかった。また、もとはミスターヤマモトの役には台詞がなく、彼は何も暗記をしていなかった。そのため彼はどのタイミングで日本語の台詞を会話の流れに投じればいいのか解らなかった。私は隣りからカメラに写らないように合図を出した。もっともミスターヤマモトは比較的早くタイミングを覚えたし、相手役のヨルグはタイミング良く台詞の終りあたりでミスターヤマモトの方を向いた。初仕事で2か国語でさらに相手役に合図まで出す、変な自己満足に浸った瞬間、カットの声が飛んだ。台詞を間違えていた。

  撮影は進んだ。同じシーンを多種多用なアングルから撮る訳だが、20回目ぐらいで台詞を間違えた。一回失敗するとそれが続く。映画の現場についてのレポートThe Making ofなんかだと皆笑っていたりするが、その全くの反対だった。シーンと静まり却ってさらに緊張が増した。急にライトのまぶしさに気づく。衣装、化粧、カメラ、その他のスタッフが全員こちらに注目していた。3回連続して失敗したが、何故かその後はうまく行った。不思議だが、なんとかなった。もともと同じ台詞を繰り返している訳で間違える方が変なのかもしれないが、よく試験である頭の中真っ白状態だった。

山祭というのがドイツの撮影ではあった。撮影の半分に到った事を祝うのである。美味しい食べ物を食べ踊って騒ぐのである。ただ、やはり初仕事で疲れていたのか、緊張していたのか、祭りの当日風邪を引き体調を崩していた。それでもがんばってスタッフと酒を飲んだりしたが、1時頃ドライバーに送って貰った。可哀想にドライバーは酒をいってきも飲んでいなかった。彼は普段子供達のピエロを務めていると言った。大学生か、多分フリーターだろう。ホテルで風邪に一日半うなされてから、夜の撮影に行った。喉は痛く、調子は悪いが、今日は台詞はない。指示どうりに車の乗り降りして歩いていればよかった。外は11時を過ぎるとかなり冷え込んだ。バンの中で一人紅茶を飲みながらじっとしていると眠気に襲われ、うたた寝をした。するとスタッフが顔色を変えて僕を探しあてた。「撮影、撮影。」朝3時には我々日本ビジネスマンは現場を去った。どうやらまだ雨のシーンが残っているらしい。ご苦労様である。

ロンドンに戻って仕方なく風邪の状態で学生の証である試験という物を済ませた。しかし、こういう時に限ってマットという友人がロスから出張で急に来た。ファイナンスの試験の前夜に新しくオープンしたテイト美術館辺りをぶらぶらしてから、歩道橋のオープニング花火を見た。連日の試験を終え、マネジメントグループ3日旅行をしてからまたフランクフルトへ飛んだ。ストリッパーと億万長者というタイトルのにふさわしい場面の撮影にスタジオをストリップバーに変換していた。朝はかなり待たされた。ストリッパー役のカトヤはギラギラビキニにスケスケ衣装、その上にコートを着ていた。彼女は暇そうな我々と撮影トラックが何台も止まっている裏道に出た。「ユウキ、車がきたら合図してね。」彼女は言った。言われた通りにすると彼女は上着のコートをフラッシュした。朝の通勤者相手に一体何をしているんだろうという状態だった。振替ったバイクの兄さんを含めてほとんどの運転手が喜んでいた。まあ、喜んでくれないと困るんだけど。爺さんが運転し、婆さんを助手席に載せた車がきた。「これは面白いぞ!」と合図を送る。車はカトヤの前で止まった。運転手は窓を下ろして何やら話をしている。厳しいキリスチャンの婆さんが怒ってるのかと思った。車は去った。「どうしたの??」と聞くと彼女は「明日もいますかって? 爺さん聞いてたわ。」カトヤはひょうきんなイタリア系だった。

今日のエキストラはシリコンの胸、唇の整形あらゆる所に手を入れたような女性が多かった。一人町中で見ると目に止まるが、こう大勢一辺にいるとかえって気持ち悪い。異様に不自然だ。中には自然派もいた。普段はスチュワデスで趣味で撮影に出ているという人と専門学校の学生、他の人達は普段はどんな仕事をしているんだろう。カトヤのボディーダブルで実際にストリップをする女性はプロのダンサーだが、前はエアロビックスのインスラクターもしていたという。待ち時間が長いが、特にする事もない。撮影を観察したり人と話したり、新聞を読んだりする。紅茶を何杯飲んだか覚えていない。昼食はおいしかった。ここのケータリング、契約しているイタリア系レストランはなかなかいい。我々日本人ビジネスマンは昼食後間もなく解放された。ホテルに戻って、泳いでからのんびり夕食を食べにフランクフルトの町に出た。

  最終日だ。前回撮れなかったフランクフル市内ホテル内での場面を最終日に撮る事になっていた。最後のシーンになって10回以上もすでに繰り返した台詞が急に消えた。失敗しだすと相手も失敗をする。これの繰り返しが続いた。「おーい引き締めて、今日中に終らせよう。」とややイライラのこもった声が監督アシスタントから飛んだ。途端に最終シーンはおさまり、昼食前に終止付が打たれた。午後2時だった。

終了パーティーはクラブの一部だけを貸切りにしていて食事もなく、次のプロジェクトに既に移動してしまった人等、中間パーティーのファミリーの感覚はなかった。ただし、初プロジェクトは終った。翌日朝のフライトでまたロンドンに戻った。一日前から、ボストンで一緒に演劇コースを取っていた仲間の マーティンが寮に来ている筈だった。彼はMITで経済を専攻してからコンサルティング会社に努めていたが、演劇がどうしても諦められないという奴だった。友人とシェークスピアのシアター、観覧車、演劇等の市内観光した。修論のテーマを大学に提出し、寮をたたんだ。大学の友人4名が一軒家を借りきっていたのでそこに転がり込んで、最後の演劇の授業に出た。翌日、再びフランクフルトに飛び実家に戻った、そしてあわただしいロンドンの生活は終った。

ファイナルズ試験の結果? 当然パスしましたよ。トップとは程遠い成績だったけど。放映翌日2001年の2月9日のザクセン新聞には「先日のRTL番組の日本人ビジネスマンは非常に面白かった。」と記されていたかどうかは知らない。