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2002年6月飲み屋の前で
ワールドカップ決勝

オリバー・カーンが敗れた。ブラジル3人攻撃の壁にさすがのカーンもねを上げるしかなかった。おしくも弾いたボール。ロナルドの鋭い脚はチャンス見逃さなかった。カーンのゴール前で座り込んだ姿は世界を回った。素早いブラジルの総攻撃には歯が立たなかった。ドイツのチームは大会中然程面白いプレーは見せなかったが、決勝では最高のパワーと迫力を見せてくれた。チャンスもあった。ノエビルがシュートし、キーパーに弾かれ、玉はゴールのポストに当たった。残念だった。右からのするどいシュートにメッツェルデの脚が後5cm長ければというチャンスもあった。バラックが前ゲームのファウルのため決勝の出場停止を食らっていたのは痛かった。良いチャンスもあったが、最後にはオリバー・カーンの寂しい姿だけが印象として残響した。ドイツ人、いや、ブラジル人を除いた、全観衆が彼の心を共にしたにちがいない。いつまでも時間が停止したような空間。

憎めないゴリラだ。カーンのゴリライメージは昔からの評判だ。フランクフルト対バイアルン・ミュンヘンの試合ではフランクフルトのファンがカーンのゴールに向かってバナナを投げていた。バナナでも食ってまともな檻に戻れとでも言っていたのであろう。野晴らしにしておくと何が起きるかわからない。ドイツチームを決勝まで導いた男。その奇跡を導いたのも彼だった。ボールを必死に地面を這って追う姿、ドイツの選手は皆彼に安心しきっていたのか、ロナルドが走り攻めるのを呆然と見送っていた。少なくともスローモーションではそう見えた。カーンなら別に問題のないボールと言った彼らの視線はボールを追った。ボールの威力は想像以上だった。カーンの体から弾いた。実際には一瞬の出来事だった。前半終了前のブラジルの猛攻を止め続けたカーンだったが、やはり3人も世界を代表するストライカーに攻撃を続けられては、ミスだってするのかもしれない。ディフェンス対攻撃サッカーの激突とも呼ばれた、ブラジル戦、ミスのない男にミスが出た。

誰もルーディー・フョラーが率いるチームにここまで進めるとは期待はしていなかった。だいたい監督のルーディーは第二の選択だった。決まっていた監督は薬物使用で就任せず代理を見つけるまでという取次ぎ人の契約だった。それからのアップダウンも多く、安定していなかったドイツチーム。ワールドカップ出場がかかっていたウクライナ戦。それがいったんワールドカップになるとサウジアラビアの8対0から始まって、危ないアメリカ戦等を経て、決勝まで進んだのだった。予想以上の好成績にドイツは湧いた。6月16日に1954年ドイツが初めてワールドカップの優勝を飾った時のキャプテンフリッツ・ワルター氏が亡くなった。彼の他界への旅を飾るようにドイツチームは躍進した。

キーパーを除いてドイツチームにはロナルドなどのスーパースターがいないのによく頑張った。ドイツにスターがいない訳ではない。カーンと同様バイヤルン・ミュンヘンでプレーをしているメヘメット・ショルというのがいるが、彼は若い者のために参加を辞退していた。そのぶんバイヤー・レバークーゼンでプレーをしているノエビルとバラックが活躍してくれたとも言えるが。対韓国線でノエビルの右サイドからのシュートをうまく捕らえたバラック。体調100%でないバラックだったが、50%のバラックでもバラックはバラックだと解説者が説明した10分後のゴールだった。誰もが彼に期待を掲げていた。その後の悲しいイェローカード。その結果決勝に出場できなくなったバラック。

ベルリンのソニーセンターがドイツの第二テレビチャンネルのワールドカップ中継センターに設定された。巨大スクリーンの前で喜び、泣き、くやしんだ数多くの各国のドイツに住むファン。ドイツ中の町にスクリーンが設置され、会社や学校をさぼる事をそそのかせた。インターネットに見入る社員。走り回る、イタリアの車がなかったのが不思議な現象だった。必ず見られるはずのイタリア国旗を飾った、愛車のフィアットに乗るイタリア人がいなかった。その代わり、町中をけたましく走り回るトルコ人の車。目新しい光景だ。そして決勝。ブラジルは果てしなく強豪だ。ドイツ人も実はこの決勝の結果は心と頭の計算は一致していなかった。賭けではブラジルが優勝するという賭けが多数をしめたという。決定的な点。しかし、ファンは最後の一分まであきらめない。あきらめられない。あのカーンを救う作戦はないのか、もう一本のシュートが出てもおかしくないではないか。白いブラジル人という異名を持つベルント・シュナイダーに幸運には恵まれず、時間はむなしく過ぎるばかりだった。ファンの表情にあきらめの影が映る。2対0が決定的な瞬間だった。ロナルド、リワルド、ロナルディニオー、の3人組みをそう簡単に倒す事はできなかった。

それでもドイツのファンは彼らを勝者を向かえるようにフランクフルトのレーマープラッツに駆けつけた。伝統的にこの市場でサッカーファンはドイツのサッカーの勇者達を祝う事になっている。1954年に初めて世界チャンピオンになった年以来からの伝統的な慣習だ。1974年、1990年には監督のルーディー自身がチャンピオンとしてあの舞台に立っていた。1405年から市長舎として使われた旧市長舎のテラスにならんで大観衆の前で優勝を祝って貰うか、二位の慰めを頂くという事になっている。ドイツ国旗に国は埋まる。ドイツの国旗の生産がついていかなかったという。主に生地が間に合わないという事で国旗を半分に切って2つにするという荒業も使っているらしい。日の丸は半分に切れないが、ドイツの国旗ならまあ縦縞が横縞になるだけですむ。日本の国旗もドイツのテレビで随分ながれた。コカコーラの宣伝だったけど。東洋人とみると車を運転している人がクラックションで挨拶をする。 夕方には市場に2万人、周囲に5万人の人々がつめかけた。ルーディーフョラーソングが鳴り響く。“Rudi Voeller. Es gibt nur einen Rudi Voeller.“ マイクを手に持って離さないのが、ガーナ出身のゲアラルド・アサモア(Shalke 04)。彼は日本に滞在している間歌の練習をしていたらしい。2万人の観衆が湧く。ルーディーはフランクフルト近辺のハーナウ出身でその町の名誉市民として選ばれた。ルーディーとノエビル(Bayer Leverkusen)の目は赤く染まった。カーンやバラックもグッ何かをかみしてていた。ファンも彼らの姿を見て思わず貰い泣きをしていた。感動をつたえてくれての感謝の涙。もっともチーゲ(あのはげ頭2号)とカルステン・ヤンカー(はげ頭一号で一番でかい選手)はビールを食らってただけだが、まあ内面では彼らも感じる物がきっとあったのだろう。それが久しぶりのドイツのビールに対しての感動であったとしても。さて、ノエビル選手だが、実はインタービューが苦手ときている。さっさと逃げる。彼はアサモアと同様生まれ故郷はドイツではない。彼は元はスイス人でフランス語圏出身である。名前もフランス系でドイツ語がかなり苦手。アサモアはドイツ語がうまい。なんと言っても、マイクを離さず、歌いまくって観衆を湧かせているのだから。

インタービューが続く。カーンにどのような心境ですか、どうやって処理するのですかと言う質問が飛んだ。彼は答えた。僕自身の問題と言うよりも、チームとして出せた結果が重要なんだ。僕個人としてどうのこうの言っても始まらない。こういうゲームにはプレッシャーは付き物だ。それに負けずに継続的に集中力を保つのは大変だ。個人的には以外と早く処理できた。いつものようにカーンはさっぱりと答えたが、口元はわずかに下がる。そして、テラスに出て、キャプテンとしてレーマーに集合した観衆と彼らの応援に感謝の言葉を送った。そして、ドイツチームのすばらしいチームガイストを称えた。(ガイスト=スピリット)

カーンはパラグアイ戦の前にインタービューで相手チームでプレーをしているバイヤルン・ミュンヘンのチームメートに向かって、俺のゴールに点を入れたら二度と更衣室に入れてやらないぞ、と脅かした、冬だって外で着替えてもらおうと。しかし、あの2点も入れたロナルド、バイヤルン・ミュンヘンに移籍したとしたらカーンに苛められるのだろうか。それはあまりにも可愛そうだ。

一番可愛そうな選手はカース・リッケン(Dortmund 10番)。一回も試合に出ていない。

そして、日本のラモスが98年の世界選手権で代表を去ったのと同様にマルコ・ボーデ, リンケとビアホフも今回でドイツ代表との別れを告げた。ご苦労様である。しかし、ドイツの他メンバーはメッツェルデを筆頭に若い者が集まっているので、2006年には大いに期待ができそうだ。そして33歳のカーンもまだまだやる気満々だ。もう世界チャンピオン2006年というティーシャツが売り出されている。

カーンのトレーナーはドイツの壁ゼップ・マイヤーだ。70年代後半に彼のゴールを割る選手はそうはいなかった。その彼の教え子であるのがカーンで彼の言葉によるとカーンは完璧主義者でハードなトレーニングを7年以上続けてきたと言う。その他にミハエル・スキッベもルーディーのアシスタントとして活躍した。少々カリスマ性に欠けるため、評価が然程高くはないが、アンダードグとしていい仕事をした。もともと今回の大会の面白みはアンダードグのストーリーにあった。期間限定の代理として監督を始めたルーディー、チーム、プレーヤー、そして、勿論韓国、トルコ、セネガル、日本という超アンダードッグチームの戦い振りも楽しめたワールドカップだった。

僕はテレビでトルコ対セネガル戦のゲームを観戦した後自転車で国道沿いを走った。するとトルコの旗を車から振り回して車が3台ほど走って行った。一台のお兄ちゃんは僕の方に向かって激しく手を振っている。僕を見て日本人か韓国人だと思ったのだろう。場所は町の中でもないただの国道沿いだ。ベルリンのトルコ人街クロイツベルグでは町全体に火がついたような状態だったらしい。町外れの住宅地でもトルコ人のおばさんが子を連れて走り行くトルコ人の車に向かって手を振っていた。そうだ、日本を破って、さらにセネガルに勝った喜びは大きかった。ドイツで一番多いい外国人はトルコ人だ。経済急成長の60年代、70年台に労働者として来た多くの彼らは労働者階級としてドイツでの存在を築いていった、かならずしくも晴れ舞台の人生とは言えない状況で暮らしてきた。そこでのサッカーの勝利の喜びは大きかった。しかし問題が一つ上がった。決勝でドイツ対トルコとなると、一体何が起きるのか。ドイツ国内でのサッカーフーリガン達の衝突につながらないのか。しかし、その心配も無用でブラジルがあっさりと勝利をトルコに対して決めてくれた。ドイツにトルコの前の順位を取得してほい、とあるドイツの知り合いは言っていた。テレビのインタービューではトルコもすばらしく戦ったと彼らのファイトを称えていた。確かにトルコはよくやった。ついこの間まではトルコのチームはドイツブンデスリーガ2部のチームと呼ばれていた。それはドイツの2部でプレーをしていた選手が多かったからだ。それが、いつの間にかヨーロッパ選手権で健闘し、世界選手権でもさらに活躍の場を見つけた。当然今はドイツのブンデスリーガ1部でプレーをしている者もいる。

伝統のレーマープラッツで祭りは夜まで続いたが、地本のサッカーファンはあまり喜ぶ理由がない。伝統あるチーム、アイントラハト・フランクフルトはブンデスリーガの一群から去年2群に落ち、その後経営難に直面し、2部のライセンスが取得できないかもしれないという危機にあった。つまり、地域リーグに格下げという事になる。すると、全くローカルな話しで恐縮だが、ヘッセン州の南(フランクフルト周辺には一チームもブンデスリーガのチームがなくなるという参事になりかねないという恐れがあったが、最大の参事だけは会議で先日解決された。ドイツサッカー。奥原以来日本人レギュラーブンデスリーガ1部の選手はなかな現れない。はらはらドキドキのワールドカップだったが、これからはまた、ドイツ国内サッカーをフォローしよう。是非もっとドイツのチームにブラジル選手を購入して頂きたい。