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Kono ブロンドと柩の謎 チャップリンの運転手

河野氏の話をすると、「えっ?チャップリンの運転手って日本人だったの?」という話にな
る。彼は運転手を務めた上に秘書であり、チャップリンの友人だったと言われている。

河野氏は1888年に生まれ17歳か18歳の時に渡米する。そして新聞で仕事を探している
と、チャップリンが運転手を求めている事を知る。弁護士を目指す彼はこの仕事に就く事
にした。

チャップリンが来日した際、河野氏はチャップリンに天皇家に挨拶をさせたという。当時政治
家の暗殺事件等があり、政治的不安定な状況だったため河野氏の配慮によっての行動だっ
たらしい。これについては詳しく或るNHK の放送で描かれていたが、残念ながら、見逃し
てしまった。

河野氏はチャップリンの交友を大切にした。彼はチャプリンに対して敬意を示していたが、リ
タ・グレーという2番目の妻に対しては不満があったようだ。彼女は若い海軍兵とパー
ティーを好み、お金をふんだんに使った。チャプリンが最初の妻ミルドレット・ハリスと
の離婚騒動中に彼は「キッド」という映画を撮影していた。そのため、財産取り押さえの
危機におちいり映画の編集が断絶されそうになった。その機会に河野氏はチャップリンと
有り金を握り締め、車で映画を運んでユタ州のソルト・レーク・シティーに逃走したとい
う。

河野氏は秘書として、チャップリンとの連絡を取った。中にはウシハラ氏という日本の監督が
チャップリンの弟子になりたいと申し出た。それに大して「うちの親父は気難しいが、何
とかしてみよう。」と答えたそうだ。またスターンバーグ監督がチャップリンに自分の映
画を見て欲しいと申し出た時にもうまくアレンジを進めたと言う。

そんな仕事をしていた河野氏だが、弁護士志望だった彼は真面目な人間だったようだ。「冒
険」という映画に役者として出たところ、妻に酷くしかられたようだ。「先祖に合わせる
顔がありません。」妻の目を逃れて結果的には幾つかの作品に出場したらしい。

18年間という長い月日を分かち合った結果彼らは別々の道を辿ることになる。チャップリン
は3人目の妻ポーレットと一緒であった。映画評論家の淀川氏によると、河野氏は彼女に
対して焼餅を焼いていたという。ポーレットの意見をチャップリンは鵜呑みにし、河野氏
に細かい指示までするようになったという。以後チャップリンは彼に何度か謝ったが、彼
らのチームは二度と復帰しなかった。

以後ロス・アンジェルスで弁護士事務所を開き、チャップリンについて語る事はなかった。晩
年を広島で過ごし、淀川氏もおとずれた。河野氏が淀川氏を見送る視線は遠いい過去を見
つめるようだったという。

情報源:淀川氏、デビット・ロビンソン、ヒサジ・クボ、NHK 番組

1988年生まれ
1916−1934 チャップリンの秘書と運転手
1971広島で亡くなる



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